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大阪高等裁判所 昭和61年(ネ)1884号 判決 1991年9月26日

控訴人

朝日火災海上保険株式会社

(附帯被控訴人。以下「控訴人」という。)

右代表者代表取締役

越智一男

右訴訟代理人弁護士

山本孝宏

河本毅

狩野裕光

太田恒久

被控訴人(附帯控訴人。以下「被控訴人」という。)

樋口勇

右訴訟代理人弁護士

宗藤泰而

藤原精吾

宮地光子

前田茂

牛久保秀樹

青木信昭

佐藤克昭

三上孝孜

谷智恵子

主文

本件控訴及び本件附帯控訴をいずれも棄却する。

控訴によって生じた費用は控訴人の負担とし、附帯控訴によって生じた費用は被控訴人の負担とする。

事実

一  当事者双方の申立

控訴人は、「原判決中控訴人敗訴の部分を取り消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は、第一、二審とも、被控訴人の負担とする。」との判決を求め、附帯控訴に対する答弁として「本件附帯控訴を棄却する。」との判決を求めた。

被控訴人は、「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求め、附帯控訴として「原判決主文第二項を次のとおり変更する。控訴人は被控訴人に対し、昭和五八年四月四日以降被控訴人が原判決主文第一項の地位に復帰するまで、毎月末日限り、一か月一〇万円の割合による金員を支払え。」との判決を求めた。

二  当事者双方の主張

次のとおり付加・訂正するほかは、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

1  原判決二枚目裏八行目の「被告会社」(本誌四八二号<以下同じ>24頁19行目)の次に「(以下「会社」ともいう。)」を加え、同六枚目裏五行目の「関東営業本部長」(25頁1段31行目)を「東関東営業本部長」と改め、同七枚目表五行目の「まず」(25頁2段18行目)から同一一行目末尾(25頁2段25行目)までを「直接又は非組合員である支店長を介して、一部の組合員に対し、分会総会の代議員に立候補することあるいは分会総会に出席して控訴人の支持する人物に投票することを働きかけたり、特定の支部役員に対する攻撃を行い、その特定の支部役員がいなければうまくいくかのような示唆をして控訴人の支持する人物に投票するよう工作したりして、朝日支部の役員選挙に介入したが、その具体的な事例は次のとおりであった。」と改め、その末尾に改行のうえ、次のとおり加える。

「<1> 非組合員である仙台支店長道家義章は、仙台分会の支部大会代議員に選出された観音時道夫に対し、同人が支部大会に出発する直前の昭和五五年九月一六日、「今度の大会では良識的な態度で臨んでくれ。大田委員長には投票しないように。今の執行部ではダメだ。もし大田以外の対立候補が出たら、その方に投票しろ。その候補に投票するのがいやだったら白紙投票するように。この話は、営業本部長がするところなのだけれども、自分が代わって君に話す。」などと説得した。

<2> 非組合員である北九州支店長鶴田健児は、福岡分会の支部代議員に選出された寺本恭夫に対し、右同日、「今の委員長は共産党だ。今の執行部体制ではダメだ。今の執行部体制では会社がダメになる。」などと、執行委員長選挙では大田決に投票しないよう説得した。

<3> 非組合員である広島支店長矢野亨は、右同日の支店での営業会議の席上、支部代議員に選出されていた菅原幸二を前にして、「東京分会では喜多、佐藤が落選した。会社のことを思っている人が分会役員についた。流れが代わって来た。広島もそうならなければならない。」と、右菅原を牽制する発言をした。なお、右菅原は、それに先立つ同月一〇日、非組合員である原副部長の机の上に、「支部執行委員長山崎順達、東京分会委員長船越肇、書記長倉田豊」と記載されたメモがあるのを目撃したが、当時役員選挙は未だなされていない時期であり、かつ、右山崎は前記支部大会で、大田決に対抗して支部執行委員長に立候補した人物であった。」

2  原判決七枚目裏二行目の「初め」(25頁2段30行目)の次に「(同人の立候補自体が会社の指示によるものであった。)」を加え、同八枚目表六行目の「課所長を招集し」(25頁3段22行目)を「、中部営業本部及び名古屋支店の課所長を招集し」と、同八行目の「実行させる」(25頁3段25行目)を「実行させたり、姫路支店では、非組合員である支店長が、組合員に対し、神戸分会の役員に立候補を表明しているB派候補者の同席の下に、同候補者への投票を説得したりする」と、同裏八行目の「無為」(25頁4段11行目)を「無理」と、それぞれ改める。

3  原判決一二枚目表初行の「応募先」(26頁3段26行目)を「応募者」と改め、同一六枚目表七行目(27頁4段11行目)と同八行目(27頁4段12行目)の間に「(Ⅴ) 原則として組合役員の任期中の異動は行わない。」を加え、同一七枚目表六行目の「無為」(28頁1段15行目)を「無理」と改め、同一八枚目表一〇行目の「ならないところ」(28頁2段20~21行目)の次に「(労働の権利は、女性にとっても人間として奪われることのない基本的人権であって、男女雇用機会均等法制定の契機となった『女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約』(日本は昭和六〇年に批准)は、その第一一条において、「すべての人間の奪いえない権利としての労働の権利」を掲げ、その確保のための措置をとることを締約国に義務付けているし、昭和五六年にILO(国際労働機関)で採択された『家庭責任を持つ労働者条約』(ILO第一五六号条約)の勧告では、雇用の条件として「労働者を一地域から他に配置転換する場合には、配偶者の就職及び子供の教育の可能性を含めて、家庭責任を配置する。」ことを使用者に求めているのである。)」を加える。

4  原判決二一枚目裏六行目の「関東営業本部長」(29頁2段20行目)を「東関東営業本部長」と、同二二枚目表一二行目の「不知」(29頁3段15行目)を「争う」と、同二六枚目裏七行目の「約五億円」(30頁4段17行目)を「約三億九〇〇〇万円」と、同二七枚目裏八行目の「組織改正」(31頁1段23行目)を「第二次組織改正」と、同二八枚目表二行目の「一七」(31頁2段2行目)を「二二」と、同三行目の「組織改正」(31頁2段2行目)を「第二次組織改正」と、それぞれ改める。

5  原判決二八枚目表七行目と同八行目(31頁2段8行目)の間に次のとおり加える。

「 なお、控訴会社は、昭和五五年一月一七日、貯蓄総合保険を最重点として販売促進していくこと及び新市場の積極的開拓とその販売網の強化等を図るための「第三次組織改正」の提案をし、同年三月二一日に右「第三次組織改正」について朝日支部と合意して同年四月から実施し、ついで、新市場開発の促進のため、同年七月一〇日には、「第四次組織改正」の提案をし、同年七月二九日に右「第四次組織改正」について朝日支部と合意して同年八月から実施し、昭和五六年一月二一日には、「第五次組織改正」の提案をし、同年三月五日に右「第五次組織改正」について朝日支部と合意して同年四月から実施し、昭和五七年一月一八日には、「第六次組織改正」の提案をし、同年三月一五日に右「第六次組織改正」について朝日支部と合意して同年四月から実施し、更に昭和五八年三月一四日には、組織の簡素化を図って、営業戦力の低下等を防ぐための「第七次組織改正」の提案をし、右「第七次組織改正」について朝日支部と合意を得て同年四月から実施してきた。」

6  原判決三〇枚目表四行目の「次のとおり」(31頁4段9行目)から同三一枚目表三行目末尾までを「昭和五八年四月までの間、原判決別表(二)記載のとおりの人事異動の発令をした。なお、本件配転命令がなされた昭和五八年四月の人事異動についての具体的な方針は、前記基本方針を具体化したもので、<1>同一課所に長年勤務する者を異動対象とすること、<2>組織統廃合に伴う異動を考えること、<3>異動対象者については内外勤の交流を図ること、などであった。」と改め、同三二枚目裏七行目の「から、」(32頁3段2行目)の次に「前記人事異動の基本方針(b)及び(c)に該当したため、」を加え、同三三枚目表四行目末尾の「である。」(32頁3段16行目)の次に、改行のうえ、「なお、控訴会社は、異動対象者の中から、「金沢営業所新市場開発担当」の適任者として、被控訴人のほかに、一応東京本社自動車業務課長代理桜井滋及び名古屋支店内務課課長代理小林紀幸も考えたが、名古屋支店から金沢営業所への異動では中部圏として同一地域内での異動となるため右小林を金沢営業所に配転することは避けることとし、ついで、被控訴人と右桜井とでは、神戸市から金沢市への異動が東京から金沢市への異動よりも異動距離が短いこと、関西圏から中部圏への異動となって、異なる経済圏の交流となることなどを考慮して、被控訴人を右適任者として選定したもので、その選定は合理的であった。」を加え、同三四枚目裏末行の「委員長には」(33頁1段20行目)を「委員長は」と改める。

7  原判決三六枚目表一二行目の「合理化計画案では」(33頁3段13行目)から同一三行目の「生じたものである。」(33頁3段15行目)までを「合理化計画案に従って定員が一名削減されて八名となった(金沢営業所の六名に金沢O/Sの一名及び中部営業本部の一名を加えた数)ところ、昭和五八年六月末に一名退職が予定されていたため、その補充をしないとの前提で、本件配転命令により被控訴人を金沢営業所の新市場開発担当として発令したものである。」と改める。

第三 証拠

原審及び当審記録中の証拠関係目録記載のとおりであるから、これを引用する(略)。

理由

一  当事者及び本件配転命令の存在について

当事者に関する請求原因1の(一)及び(二)の事実並びに本件配転命令の存在に関する請求原因2の事実は、いずれも当事者間に争いがない。

二  本件配転命令前後の労使関係について

(証拠略)の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  控訴会社の経営危機とそれに対する朝日支部の対応

(一)  控訴会社は、昭和二六年に野村証券株式会社(以下「野村証券」という。)、株式会社大和銀行、株式会社第一銀行(現在の株式会社第一勧業銀行)などの出資によって損害保険業を営むことを目的として設立された会社であり、昭和四〇年二月一日に興亜火災株式会社(以下「興亜火災」という。)の一組織であった鉄道保険部(以下「鉄道保険部」という。)を吸収する形でこれと合体し、同部所属の従業員を控訴会社の従業員として受け入れたため、以後控訴会社の従業員としては、当初からの控訴会社の従業員と、右合体によって控訴会社の従業員となった鉄道保険部出身の従業員とが混在することとなった。

なお、鉄道保険部は、形式的には興亜火災の一組織とされていたが、保険契約は興亜火災を代表幹事として当時の元受損害保険会社全社が共同で引き受け、共同保険の事務処理上必要な経費は人件費も含めて元受損害保険会社が各その保険分担割合に応じて負担するものとされ、また、興亜火災が共同保険の事務処理に必要な人員を雇用又は嘱託として雇用するものとされていたのであって、興亜火災も鉄道保険部の経費の一分担者にすぎず、鉄道保険部自体は元受損害保険会社全社の共同管理下にあったため、興亜火災には鉄道保険部の従業員に対する人事権はなかった。そして、鉄道保険部の取り扱う保険内容及び取扱方法の特殊性や同部独自の組織の存在(鉄道保険部としての本部、支部、営業所が興亜火災のそれとは別に存在)等から、鉄道保険部長が、元受損害保険会社全社の承認の下に、同部の組織及び業務等の管理をするとともに、従業員の労働条件の決定をなすなど、鉄道保険部自体が一つの独立組織のような実態を持ち、鉄道保険部長が、実質的な使用者として、同部の従業員にのみ適用のある就業規則(内規)を制定したり、鉄道保険部の従業員で組織されていた全損保鉄道保険支部(以下「旧鉄道保険支部」という。)との間に労働契約を締結していたので、右合体に当たって、控訴会社が鉄道保険部長との間に締結した「合体に関する覚書」においては、合体後における鉄道保険部の従業員の身分・給与等は別途協議の上決定するものとされるとともに、鉄道保険部の就業規則等は、改定されるまでは、合体後も当分の間そのまま控訴会社が継承し、また鉄道保険部と旧鉄道保険支部との間の労働協約等の諸契約も、合体後に新たな契約が締結されるまでは、控訴会社と鉄道保険部の従業員との間で効力を有するものとされた。

(二)  控訴会社は、右のように戦後設立されて資産規模が小さいなど経営基盤が脆弱であったうえ、生産性が低かったために慢性的な赤字体質にあったところ、昭和五一年度から実施した「中期計画」による経営拡大策が高度成長期から低成長期への移行による経済環境の変化に適応せず、支出の増加に見合う収入の増加がなかったことや損害率の憎悪等により、昭和五二年一一月ころには、同年度決算(昭和五三年三月期決算)を、関係法令及び大蔵省の行政指導に基づく統一経理基準に従った原則決算の方法によった場合には、約二〇億円の経常損失が見込まれ(控訴会社の当時の資本金は二億五〇〇〇万円であった。)、株主に対する配当も前年の九パーセント配当から無配に転落することが必至の状態であった。

そのため、控訴会社は、昭和五三年三月に朝日支部からなされた同年度の賃上げ要求に対し、右のような控訴会社の経営状態を説明して「ゼロ回答」をし、数次にわたる団体交渉でも右回答を変えなかったので、朝日支部は、同年五月及び六月に連続して一五分から三〇分の早退ストライキを行って、控訴会社に賃上げを迫った。

(三)  そのような折の昭和五三年六月二二日、日本経済新聞が、同日付朝刊トップ記事をもって、「朝日火災再建に乗り出す」、「前三月期大幅赤字 経営陣一新へ」との見出しで、控訴会社が経営危機で倒産のおそれがあるかのような報道をしたため、控訴会社の内外に、控訴会社の経営状態につき深刻な不安、動揺を与えるに至り(いわゆる「日経ショック」)、控訴会社は、対外的には、社長名で代理店に対し、控訴会社の昭和五二年度決算は、統一処理基準によってみると好ましい決算態様ではないが、質的には一過性のものであって、一両年中にはほぼ正常な総合収支の均衡が図られるものと確信している旨等を説明して、代理店の動揺の鎮静化を図る一方、対内的には、新規採用の抑制・欠員の不補充及び合理化により従業員数を逐次漸減させること等による人件費・物件費の圧縮、並びに管理内務部門事務の合理化・組織改正等及び低効率営業所の整理縮小等による営業強化のための要員再配置とを主内容とする「合理化実行計画案」を策定し、同年六月二九日朝日支部にこれを提示して合理化を推進しようとした。

(四)  大田決を執行委員長とする朝日支部執行部(以下「大田執行部」という。)は、右日経報道後直ちに、朝日支部闘争委員会名で、右報道は、控訴会社の経営者が、大蔵省及び大株主の意図を受けて、従業員・組合員の動揺を最大限に活用し、賃上げゼロと大合理化を一方的に強行するため、意図的にその契機を作り出したためなされたもので、控訴会社が昭和五二年度決算(昭和五三年三月期決算)につき大幅な損失を計上することとなったのは、控訴会社が内部留保されて保険金支払の担保となる責任準備金及び支払準備金を前年度に比して大幅に積み増したことによるものであって、報道されているような経営内容の急激な悪化によるものでないから、朝日支部の従来の要求と方針を変更する必要はないとして、合理化自体に反対するものではなく、必要な体質改善はすべきであるが、大蔵省、大株主及び経営者が一方的に決めた再建合理化計画の強行は許さず、徹底的に協議をし、納得のいく再建計画を求めていくとともに、従来の賃上げ要求を維持し、早期解決のために全力を挙げて闘う旨の見解(「『日経報道』に関する朝日支部闘争委員会見解」)を発表し(なお、全損保も、同月二三日これを支持する全損保常任闘争委員会見解を発表した)、控訴会社の提示した経営危機を理由とする賃上げ抑制・合理化等と対決して行く姿勢を鮮明に打ち出し、右報道後も二度にわたって、賃上げを要求して早退ストライキを実施した。

もっとも、朝日支部は、右報道による代理店や契約者からの反応に配慮した一部組合員(特に、首都圏の営業所課長組合員らからは、東京分会闘争委員に対し、同年七月五日に予定されているストライキの中止を要請する文書が提出された。)や一部分会闘争委員から「ストライキ回避・一時休戦」の意見が出たことから、同年七月五日に予定されていたストライキを中止した。

(五)  右のような状況の中で開催された同年七月三一日の控訴会社の株主総会において、代表取締役三名(会長、社長及び副社長)及び筆頭常務取締役の四名の旧経営陣が、同年三月期決算での大幅の欠損及び無配転落などの責任をとって辞任し、野村証券の専務取締役であった田中迪之亮を代表取締役社長とする新経営陣が控訴会社の経営の衝に当たることとなった。

なお、控訴会社の昭和五二年度決算は、前記原則決算の方法によるときは、約六七億四四〇〇万円の契約準備金の積増しが必要となったことが大きく影響して約一七億七〇〇〇円の経常損失を計上せざるを得ない状態であったため、これを回避するために大蔵省の認可を得て有価証券売却益でこれを補填し、漸く一九〇〇万円の当期利益を計上する会計処理をし、また控訴会社の株主に対する同年度の配当は無配となった。

2  新経営陣による経営再建施策とそれに対する朝日支部の対応

(一)  控訴会社は、新経営陣となった後も、経営危機を理由に、旧経営陣と同様に「昭和五三年度賃上げゼロ回答」をし、また、前記合理化実行計画案に従って合理化を図ることとした。

これに対し、朝日支部は、昭和五三年八月八日に開催された第三六回臨時支部大会において、大田執行部の提案どおり、賃上げゼロ回答を打破して有額回答を引き出すまで闘い、展望のもてる実行可能な再建計画を要求し、控訴会社提案の合理化実行計画案については、全面返上論は採らないが、労働条件の維持の観点から、実質協議をすることで対処することとし、要求の実現のためにはストライキ等の争議行為をすることなどを決定した。

(二)  ところで、控訴会社と朝日支部との団体交渉は、長年にわたって、原則として、控訴会社からは社長以下在京常勤取締役全員が、朝日支部からは執行委員を含む支部闘争委員全員が出席し、時間についても特に制約を設けずになされてきたが、控訴会社は、昭和五三年八月一日の新経営陣となって初めての労使懇談会において、従前の団体交渉の方法では、控訴会社の経営再建にとって不都合であるとの理由で、団体交渉の出席メンバーを労使八名ずつとし、一日の交渉時間を午後五時から二時間とし、社長は原則として出席しないなどとする人数制限や交渉時間の制限等を内容とする団体交渉ルールの変更を朝日支部に申し入れたため、朝日支部は、右団体交渉ルールの変更の申入れは、長年の団体交渉についての慣行を一方的に覆そうとするものであるとして強く反対し、従前どおりのルールでの団体交渉を求めたが、控訴会社がこれに全く応ぜず、そのため実質的な団体交渉ができない状態となった。

そこで、朝日支部は、同月一〇日、当時懸案となっていた同年度の賃上げ、合理化実行計画案及び団体交渉ルール等の三点についての解決のための斡旋を中央労働委員会に申し入れたところ、同月二五日、中央労働委員会から、合理化実行計画案については労使各七名ずつの人数で団体交渉をし、その他の事項についても、今後労使間で話し合いをすすめ、円満解決を図ることを内容とする斡旋案が示され、控訴会社及び朝日支部ともこれを受諾し、以後右斡旋案で示された出席者による団体交渉がなされ、その結果、前記合理化実行計画案については、控訴会社が朝日支部の要求を容れてその内容の一部を修正する譲歩をしたため、朝日支部も同年九月一日から実施することを了承した。

なお、朝日支部は、同月からは、団体交渉ルールについての権利を留保したうえで、控訴会社の前記変更申入れに譲歩して、控訴会社八名、朝日支部から一三名がそれぞれ出席して団体交渉することを了承したため、以後の団体交渉はほぼ右出席者によって行われた。

(三)  しかし、控訴会社が朝日支部からの昭和五三年度賃上げ要求に対してはゼロ回答を変えないため、これを不満として朝日支部は、同年九月以降同年一二月までの間に、東京本社へ抗議団を数次に亙り派遣し、役員室前のフロアーに座り込み、シュプレヒコールを繰り返し、各職場にビラを貼りめぐらすなどの控訴会社始まって以来の激しい争議行為を展開し、さらに昭和五四年二月に開催された臨時支部大会で、執行部の提案どおり、「賃上げゼロ回答を打破し、質・量にこだわらず賃上げを獲得し、三月臨給(昭和五四年三月臨時給与)実績三・五九五ケ月を確保する」ことを目標として、全日・半日ストライキ、大蔵省・大株主に対する要請行動等のあらゆる争議戦術を行使することを決め、同年三月には半日ストライキをするなどしたが、控訴会社は、右ゼロ回答を変えず、ただ同年三月臨時給与については、従来の回答に上積みする回答をするに至り、これを受けた朝日支部は、不満は残るが闘争を収束することとし、同年三月二二日、昭和五三年度の賃上げ要求及び昭和五四年三月の臨時給与要求については控訴会社の右回答で妥結した。

なお、控訴会社が朝日支部からの従前の団体交渉ルールによる団体交渉要求には全く応じようとしないため、朝日支部(大田執行部)は、控訴会社の他の行為とともに不当労働行為にあたるとして、昭和五四年四月から同年六月にかけて、控訴会社に対し、東京都地方労働委員会に対する救済申立も検討していることを伝えて、不当労働行為の中止と原状回復をたびたび要求したが、控訴会社は、団体交渉の席上、「このようなムードを作るのは、名誉棄損ではないのか、賃上げどころではない」、「いかに(経営)危機でも、不当労働行為は譲れないというのであろうが、それに遠慮していては、仕事にならん」などと発言して反発し、朝日支部の右要求に応じようとしなかったため、朝日支部は、同月二七日、右団体交渉ルールの一方的変更を理由とする団体交渉拒否等が不当労働行為に当たるとして、同労働委員会に救済の申立をした。

(四)  控訴会社は、前記合理化実行計画を昭和五二年度三月期の大幅欠損発生直後の緊急避難的な措置であったとして位置付けたうえ、昭和五四年度以降は、経営体質の抜本的な改善をし、黒字基調の回復等を目的として、収入の増加を図り、経費節減のための組織改正(合理化)等の諸施策を実施し(第六次組織改正までの概略は別紙「組織改正(要員計画を含む)」に記載のとおりであり、昭和五八年四月から実施された第七次組織改正をも通じて、収入増加の諸施策としては、営業戦力を強化するために内務要員を営業担当に振り向けること、販売重点地域の選定・強化を行うこと、販売重点種目の選定を行うことを基本とし、経費節減のための諸施策としては、退職者不補充の体制をとり、事務所、社有車の縮小整理等による物件費用の節減を図ることを基本とするものであった。)、それに伴って毎年大幅な人事異動を実施する(その概略は原判決別表(二)「人事異動表」に記載のとおりである。)とともに、経営の安全保障のための諸施策の柱として、年功序列型賃金体系から職能給体系への改定を内容とする人事諸制度の確立、いわゆる退職金倒産を防止するための退職金規定の改定及び鉄道保険部との合体以来の懸案となっていた二本立て定年制の統一の方針を立て、朝日支部が同年三月にした同年度の賃上げ及び臨時給与の要求に対しては、控訴会社の経営状態から無条件の賃上げ等には応じられないとして、「人事諸制度の改定」(職能資格制度の導入並びに職能給体系への移行)「退職金制度の改定」・「定年統一」を条件として賃上げ等を行う旨の回答(いわゆる「セット提案」)をした。

(五)  控訴会社が行った右「セット提案」のうち、「退職金制度の改定」の提案内容は、これまで勤続三〇年以上の場合、退職時の本俸に係数七一を乗じて計算されることになっていた制度を、職能資格制度との有機的関連の下に、資格別に与えられた得点と昇格した際に付加される得点の合計に基準単価を乗じて得た金額を退職金(但し、支給上限は二三〇〇万円)とする点数式退職金制度に改定しようとするものであった(なお、控訴会社は、その後、右点数式退職金制度への改定提案を撤回した。)。

また、「定年統一」の提案内容は、前記合体前からの控訴会社の従業員の定年は、労働協約により満五五歳とされているのに対し、前記合体によって控訴会社の従業員となった旧鉄道保険部出身の従業員については、前記合体前の鉄道保険部長が旧鉄道保険支部との間に締結した労働協約においては、「従業員の定年は満六三歳とし、当該従業員が満六三歳に達した翌年度の六月末日までとする。但し、会社(鉄道保険部)が必要と認めたとき二年延長することができる。」(第二三条)とされ、また、右就業規則でも、「従業員の定年は満六三歳とする。但し、会社(興亜火災)において必要と認めたときは二年間延長することがある。」(第三八条)とされていたところ、前記のとおり控訴会社が鉄道保険部長との間に締結した「合体に関する覚書」により、鉄道保険部の就業規則等及び鉄道保険部と旧鉄道保険支部との間の労働協約等の諸契約は、合体後に改定あるいは新たな契約が締結されるまでは、控訴会社と鉄道保険部の従業員との間で効力を有するものとされ、かつ、控訴会社においては、実際にも鉄道保険部出身の従業員につき満六五歳で定年措置が採られてきたため、朝日支部は、鉄道保険部出身の従業員の定年は右労働協約及び労働慣行により事実上満六五歳であったとの理解に立ち、その旨の主張を控訴会社にしていたのに対し、控訴会社は、鉄道保険部出身の従業員のうち国鉄を退職して鉄道保険部の従業員となった者の定年は満六三歳であるけれども、それ以外の鉄道保険部出身の従業員の定年は、控訴会社に当初からいた従業員と同様に満五五歳であると主張して、両者の見解が一致せず、かつ実際にも、鉄道保険部出身の従業員とそれ以外の従業員との間に異なる定年制が機能している状態であったが、そのような状態を改め、全従業員について定年を満五七歳の誕生日に統一しようとするものであった。

(六)  朝日支部は、控訴会社の右セット回答につき、賃上げ額が低額であるうえ、セットとされた制度改定はいずれも組合員にとって労働条件の不利益な変更を内容とする改悪であるとして、セットの切離しと賃上げ額の上積みを要求し、昭和五四年九月の第四〇回支部定例大会で、大田執行部が提案した「外へ出る闘い」の闘争方針(全損保の支援を受けながら、野村証券等の大株主及び大蔵省を包囲して、抗議行動あるいは要請行動をし、控訴会社の経営陣を孤立させ、朝日支部の要求を貫徹するとの闘争方針)を決定したうえ、全損保の支援を受けて、「朝日経営、野村証券を社会的に包囲しよう」というキャンペーンを掲げ、同年一〇月一七日には、全国的に、大量のビラ配布、控訴会社の実質的な主要株主である野村証券の本支店に対する抗議活動を行うとともに、三〇分の早退ストライキをし(第一次総行動)、さらに同年一一月一六日にも、全国で、大量のビラ配布、野村証券の本支店に対する抗議活動、大蔵省に対する要請行動等をし(第二次総行動)、同年一二月以降も大規模な総行動を予定する一方、同月には、東京都地方労働委員会に対し、同年度の賃上げを「定年統一」などの制度改定と切り離して実現できるよう求める実行確保の措置の申立を行った。

(七)  ところが、昭和五四年一一月一五日になって、東京本社の営業部門、業務部門の課長組合員のほぼ全員にあたる四〇名から、朝日支部が進めている右「外に出る闘い」は、控訴会社の信用等を失わせるなどの不利益があるだけで問題解決にはならないとして、同月一六日に予定されている総行動を中止するよう求める「要請文」が朝日支部に提出され、また名古屋分会でも同様の動きがあり、さらには、「外に出る闘い」の闘争方針に批判的な右組合員ら(以下「署名推進派組合員」という。)は、同年一二月七日以降、控訴会社の存続・再建を優先し、朝日支部は、制度改定の原則論よりも経済的要求(賃上げ要求)の確保に重点をしぼって団体交渉し、経済的要求が一定程度確保できたら、制度改定については控訴会社の提案の内容を基本的には受け入れて早期解決すべきであるとの立場から、「外に出る闘い」の中止を求める署名運動を展開するに至ったため、朝日支部では、大田執行部において署名推進派組合員らとも話し合いをするなどしたうえ、同月一四日の第三次総行動は一部戦術を縮小して実施した。

(八)  その後、昭和五四年度賃上げ等は、東京都地方労働委員会からの見解表明を受けての団体交渉により、新人事諸制度改定及び退職金制度改定は昭和五五年七月末を目途に合意に努力し、定年統一は継続協議すること及び同年度の賃上げ及び臨時給与については控訴会社からの上積み回答によることで合意した。

そして、控訴会社と朝日支部は、右合意に基づき、まず、主に新人事諸制度の改定についての団体交渉を続けながら、昭和五五年度賃上げ及び臨時給与についても団体交渉をし、昭和五五年度賃上げ及び臨時給与については、朝日支部において、控訴会社の回答を不満として同年六月から同年八月にかけて数次にわたる早退ストライキを実施し、控訴会社から上積み回答を引き出して昭和五六年三月末日までに合意し、また、新人事諸制度の改定についても同年七月には大筋で合意が成立したが、退職金制度改定及び定年統一については、双方の見解の相違が大きく具体的な進展はなかった。

3  朝日支部内部の動揺・対立と執行部の交替

(一)  朝日支部は、控訴会社の従業員で構成され、労働協約上、課長(特定の職位にある者は除く)、所長、課所長代理などの役職者も組合員とされているが、本店の部長及び副部長等並びに支店の支店長及び次長などの一定範囲の役職者は非組合員とされていた。

そして、朝日支部の支部大会は代議員制で運用されていて、各代議員は控訴会社の本支店に置かれた分会総会において、原則として分会員によって直接選出されることになっているが、東京分会は分会員数が多いため、その分会総会は、分会員三名について一人の割合で職場毎に選出された分会代議員を構成員とする代議員制がとられ、支部大会代議員は分会代議員によって構成される分会総会で選出されることとされている。

(二)  ところで、署名推進派組合員らは、昭和五五年二月の臨時支部大会以降、前記のような自分達の立場、すなわち大田執行部による「外に出る闘い」の闘争方針を含む朝日支部の運営及び闘争方針に反対し、前記セット提案にかかる制度改定の原則論よりも賃上げ等の経済的要求の確保に重点をしぼって団体交渉し、右経済的要求が一定程度確保できたら、右制度改定については控訴会社の提案の内容を基本的には受け入れて早期解決すべきであるとして労使協調を重視する立場を朝日支部の運営及び運動方針に反映させるため、これに同調する組合員を増やし、この立場に立つ代議員を支部大会に送り込む活動を行ったため、この立場に立つ組合員と、右制度改定を含む労働条件の維持向上のためには使用者と対決し、「外に出る闘い」を含む労働争議も辞さないとするこれまでの大田執行部による朝日支部の運営及び闘争方針の立場を支持する組合員とが、朝日支部内で対立することとなり(以下では、後者の立場を「A派」といい、この立場を採る組合員を「A派組合員」といい、前者の立場を「B派」といい、この立場を採る組合員を「B派組合員」という。)、昭和五五年九月に開催された朝日支部の第四三四定例支部大会に当たっては、朝日支部傘下一三分会中七分会で執行部の運動方針を支持する候補者と執行部の運動方針に反対する候補者との間で支部代議員選挙が行われた。

そして、右定例大会においては、「外に出る闘い」の闘争方針を含む朝日支部の運営及び闘争方針をめぐって、A派組合員及びB派組合員との意見が鋭く対立し、大田執行部提案の「基本運動方針」、「当面の重点闘争方針」及び「一般運動方針」がいずれも僅差で可決され、また朝日支部の主要役員の選出についても、両派の立場に立つ組合員が立候補して選挙が実施され、執行委員長には大田決が再選されたが、執行部役員一五名中六名がB派組合員によって占められることとなった。

(三)  朝日支部は、昭和五五年一〇月七日、右定例支部大会に向けて、控訴会社の職制(非組合員)が支部大会の方針決定と役員選出に影響を与える言動をして、朝日支部の運営に支配介入したとして、東京都地方労働委員会に救済の申立をしたところ、同労働委員会は、昭和五六年一〇月一四日、朝日支部の救済申立を一部認める救済命令を出した。

そこで、朝日支部は、同日、控訴会社に対し、右救済命令に従って、謝罪と反省をし、労使関係の正常化のための全面的な努力をするよう求めるとともに、朝日支部としては全面的な和解交渉の用意がある旨の申し入れをし(控訴会社は、右東京都地方労働委員会の救済命令を不服として、中央労働委員会に再審査の申立をした。)、以後、朝日支部から、同月及び同年一一月の二度にわたって、朝日支部の指摘した不当労働行為について謝罪し、将来の朝日支部の運営に関する支配介入の不当労働行為の発生防止のための有効な手段を講ずること及び控訴会社が朝日支部に対し解決金を支払うこと等を内容とする和解案を提案するなどして、労使関係正常化のための和解交渉を続けた。

(四)  ところが、昭和五六年一一月中旬に開催された第四三回定例支部大会においては、大田執行部の提案した昭和五六年度賃上げについての具体的闘争方針案が、具体的な闘争方法(ストライキとしての定時退社や時間内ストライキ等)に関する部分を削除した上で可決され、また、大田決に替わって、B派から立候補した太田忠志が執行委員長に当選し、執行部役員のポストもA派よりB派の立場を採る組合員が多数を占めるに至り(なお、前執行委員長の大田決は、副執行委員長に立候補して無投票当選し、支部役員に留まった。以下、太田忠志を執行委員長とする執行部を「新執行部」という。)、以後、新執行部内では、昭和五六年三月臨時給与、昭和五七年度賃上げなどの闘争方針等をめぐって、B派の立場に立って、労使の信頼関係と協調とを重視して、控訴会社の諸提案につきこれを基本的に受け入れて早期妥結を主張する多数意見と、これに反対し、交渉あるいは闘争の継続を主張するA派の立場に立つ少数意見が鋭く対立し、そのような状態は、昭和五八年九月に開催された第四七回定例支部大会まで続いたが、同大会での支部役員選挙の結果、大田決を初めとするA派組合員の候補者が相次いで落選し、支部役員全員がB派組合員によって占められることになった。

4  新執行部成立後の労使関係

(一)  新執行部は、昭和五六年一一月から控訴会社との間に労使関係正常化のための和解交渉を再開し、昭和五七年三月、控訴会社が、本件労使紛争が発生したことに遺憾の意を表し、今後とも不当労働行為と疑われるような言動のないように注意すること、団体交渉は、出席メンバーを労使それぞれ一五名以内とし、時間は、原則として就業時間外の二時間を目途とすること及び控訴会社が朝日支部に解決金として金一封を支払うこと等の内容で和解した。

(二)  ところで、前記のとおり退職金改定及び定年統一についての労使協議には具体的な進展がなかったが、控訴会社は、昭和五六年一〇月、朝日支部に対し、右定年統一に関して、「組合員の定年は満五七歳に達したときとする。但し、日本国有鉄道に勤務し満五〇歳を超えて退職後入社した者(国鉄永退社員)の定年は満六三歳に達した翌年度の六月末日とし、控訴会社が必要と認めたときは二年延長することができる。」との提案をし、これに対し、朝日支部の新執行部は、当初からの控訴会社の従業員の定年ですら実質六〇歳であり、鉄道保険部出身の従業員についての定年は実質六五歳であったのであるから、控訴会社の右提案は、定年年齢を大幅に引き下げる労働条件の改悪であり、鉄道保険部出身の従業員の既得権を奪うものであるとして、昭和五七年二月、「従業員の定年は満六五歳とし、当該従業員が満六五歳に達した翌年度の六月末日までとする。」との組合案を決めて、控訴会社に対案として提示した。

そして、控訴会社と朝日支部は、同年三月以降、定年統一と退職金規定の改定についての団体交渉を継続し、控訴会社は、昭和五八年二月二四日、定年統一及び退職金制度の改定案(その基本的な内容は、定年年齢を満五七歳、退職金係数を三〇年勤続四八か月とするものであった。)を提示したが、朝日支部からの再検討要請を受けて同月二八日、修正提案(「定年統一と退職金制度改定に関する会社案」。退職金係数を三〇年勤続五一か月とする修正を基本として、経過措置も手直したもの)をしたところ、朝日支部は、内部的には種々の意見があるが、基本的には右修正提案を受け入れ、代償条件(昭和五八年三月臨時給与は要求どおり支払う。同年以降の三月臨時供与は、実績を基礎に年初に協定する。)を付加するとともに、定年及び退職金の経過措置等についての修正要求を内容とする対置要求を出すこととし、同年三月二二日開催された第四八回臨時支部大会で右対置要求に従って控訴会社と交渉することが承認されたため、控訴会社とさらに団体交渉をした結果、控訴会社は、同年四月一一日、代償条件について朝日支部に譲歩する最終回答をした。

(三)  そこで、新執行部は、右最終回答を支部闘争委員会の討議に付したところ、「最終回答は、朝日支部の対置要求と比較して不満足な部分もあるが、さらに譲歩を求めることは困難であるから、収束する」との多数意見(執行委員長太田忠志らB派の意見)と、「最終回答は、極めて不十分であり、要求実現の方向で更に粘り強く交渉努力する」との少数意見(執行副委員長大田決らA派の意見)に分かれたため、右両意見の賛否を朝日支部の組合員の全員投票に付することとした。なお、全損保常任中央執行委員会は、朝日支部の新執行部に対し、控訴会社の右最終回答は、朝日支部の対置要求との関係で、定年及び退職金の労働条件を大幅に切り下げるうえで最大限譲歩した内容とは到底いえないとして、さらに討議を深めることを求めるなど、少数意見を支持する内容の見解を示した。

右組合員全員投票は、有効投票の約六五パーセントが多数意見賛成、約三三パーセントが少数意見賛成の結果となったため、朝日支部の新執行部は、同年四月二三日の支部闘争委員会の討議にかけ、賛成多数で、多数意見の方向で定年統一及び退職金問題を解決することとし、全損保からは、三分の一の組合員が反対している中で多数決で労働条件の切り下げに応ずるべきではなく、要求実現をめざして粘り強く交渉を続けるべきであるとの指導を受けたが、最終的には、全損保も、組合員一人一人の権利を留保するという立場を明確にすることを条件として朝日支部の右方針をやむなく承認するに至ったため、同年五月九日、控訴会社との間で右最終回答を基づいて、定年及び退職金制度の改定について協定を締結した。

(四)  以上の経過をとって、控訴会社が経営再建のために極めて重視していた人事諸制度の改定、退職金制度の改定及び定年統一の諸懸案はいずれも解決をみた(なお、新執行部になってからは、就業時間に食い込むストライキは全くなされてなかった。)が、控訴会社の田中社長は、昭和五八年一〇月七日開催の営業本部長・部長合同会議の席上、「幸い労務問題も良い方向に行っている。」との発言をして、労使関係が正常化しつつあるとの認識を示した。

5  控訴会社の人事異動とそれに対する朝日支部の対応

(一)  控訴会社と朝日支部との間に締結された労働協約においては、人事の方針として「会社はすべての人事異動について従業員の能力、能率、体力、生活条件等を慎重に考慮して公正にこれを実施する。」(第一六条)と定められ、また、控訴会社は、従業員の転勤等の人事については、発令前に朝日支部に通知し(第一七条)、執行委員長・執行副委員長・書記長・執行委員・常任委員・分会委員長の転勤等の場合には事前に朝日支部に通知し、かつ、執行委員長以下支部三役については朝日支部と協議する(第一八条)ものとされている。

(二)  控訴会社では、昭和五三年七月の経営陣交替までは、右労働協約の定めにもかかわらず、組合員の人事異動全部について事前に朝日支部及び異動対象者に通知し(異動対象者との関係では、「内示前内示」と呼ばれていた。)、朝日支部との協議が整った段階で、異動対象者に正式に内示され、それから一五日以内に着任するということが長年続けられ、また控訴会社がした内示前内示にかかる異動が、異動対象者及び朝日支部からの、組合事情や家庭事情等の理由による撤回要請等を受けて撤回や変更されることも稀ではなかった。

(三)ところが、控訴会社は、新経営陣になった昭和五三年八月以降、組合員の人事異動につき前記労働協約の規定に従って処理するとして、組合役員でない異動対象者については、朝日支部及び移動対象者本人の双方について前記通知(内示前内示)をすることなく、直ちに正式内示をすると同時に、朝日支部にも労働協約第一七条に基づく通知をするようになり(なお、昭和五七年八月の異動分からは、組合役員の異動につき、労働協約第一八条の区分に従って、協議対象者と通知対象者とを区分して朝日支部に協議を求めるあるいは通知するようになった。)、また、いったん通知又は内示した人事異動案(又は人事異動)については、朝日支部からの組合事情や家庭事情を理由とする撤回等の修正要請があっても、業務上の必要に基づく人事異動であることを理由にこれにほとんど応ずることがなかったため、相当数の組合員が異議を留めながら配転に応じ、あるいは退職していった。

朝日支部は、控訴会社の支部あるいは分会役員に対する人事異動については、控訴会社の組合役員に対する配置転換の意図は別として、当該配転によって組合活動が困難になり、支障が生ずるとして、たびたび善処を求めたが、控訴会社は、組合活動に多少の支障があるとしても、控訴会社の業務上の必要に基づくものであるとして、全く修正には応じなかった。

(四)  もっとも、控訴会社は、昭和五五年三月一四日に朝日支部に通知した同年四月一日付人事異動のうちには、夫が控訴会社大阪支店に勤務し、妻が控訴会社神戸支店に勤務していた橘邦昭・同道子夫婦について、夫橘邦昭を控訴会社東京支店に、妻橘道子を控訴会社大阪支店にそれぞれ配転させ、また、控訴会社大阪支店に勤務し、妻が大阪市内の団体職員として勤務していた八木隆について、同人を控訴会社久留米営業所に配転させるとの人事異動が含まれていたところ、橘夫婦及び八木は、いずれも、右各配転は夫婦別居を強いるものであるとして異議を述べ、朝日支部(大田決執行部)は、控訴会社に対し右各配転の撤回修正を要求し、控訴会社による配転強行に備えての闘争準備をして団体交渉した結果(なお、全損保の組合員から控訴会社社長宛に一〇〇通を超える多数の抗議電報が打たれた。)、控訴会社は、夫婦が同居して生活できるように、橘道子の配転先を控訴会社大宮支店に変更し、また、八木隆の配転先を京都支店に変更したため、右各配転問題は早期に解決をみた。

三  本件配転命令が不当労働行為に当たるとの被控訴人の主張について

1  被控訴人の組合歴・組合活動の状況及び本件配転命令当時の生活状況

(一)  (証拠・人証略)によれば、被控訴人は、昭和三五年四月に控訴会社に入社し、以来、全損保に加入するとともに、控訴会社の従業員で構成される朝日支部に所属してきたこと、被控訴人は、右入社から昭和五四年三月までは朝日支部大阪分会に属していたが、その間の昭和四三年から昭和四七年までは同分会の副書記長、副委員長等をするとともに、全損保大阪地方協議会の書記長をし、朝日支部大阪分会あるいは全損保大阪地方協議会の役員として活発な組合活動をしたこと、ついで、被控訴人は、同年四月からは朝日支部神戸分会に所属することとなったが、昭和五五年九月に同分会委員及び全損保神戸地方協議会幹事となったのを皮切りに、昭和五六年一一月及び昭和五七年九月の分会委員長選挙では、A派の立場から委員長に立候補して、B派の立場から立候補した組合員を破って当選し、本件配転命令発令当時右神戸分会委員長及び神戸地方協議会副書記長の地位にあったこと、また、被控訴人は、同分会総会において、昭和五五年九月以降昭和五八年三月までに開催された合計六回の定例支部大会又は臨時支部大会の代議員を決める選挙にいずれも立候補し、その都度B派の立場から立候補した組合員を破って連続して当選したこと、朝日支部は、控訴会社が朝日支部の昭和五三年度賃上げ要求に対してゼロ回答をしたことに抗議するため、同年九月五日から同月八日にかけて全国の職場から約二五〇人の組合員からなる抗議団を編成したが、被控訴人は、右抗議団の副団長として、控訴会社の本社役員室前の廊下等に座り込むなどして先頭に立って抗議行動等をしたこと、また、被控訴人は右各支部大会においては、A派の立場から、代議員として活発に発言し、さらに神戸分会の委員長となった後は、同分会組合員からの諸要求につき神戸支店あるいは姫路支店の支店長、近畿営業本部長と交渉としてその実現に努力するなどの組合活動を積極的に展開したこと、なお、昭和五七年、五八年当時、朝日支部の支部役員及び大方の分会の分会役員がB派の立場に立つ組合員によって多数を占められあるいは独占されるようになっていたが、神戸分会は、被控訴人を委員長として、A派の立場に立つ井崎隆、出島義明らの組合員が副委員長(但し、昭和五六年には副委員長は置かれなかった。)、書記長をも独占していた点で目立った存在であったことが認められ、乙第一五五号証及び当審証人鶴田浩司の証言中右認定に反する部分は信用できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

(二)  被控訴人が控訴会社に入社した後の勤務場所及び職歴が原判決事実摘示中の控訴会社主張3の(二)の(1)のとおりであることは当事者間に争いがなく、(証拠・人証略)及び原審における被控訴人本人尋問の結果によれば、被控訴人は、本件配転命令当時、大阪市内の自宅に妻和子、三人の小学生になる子供及び被控訴人の実母(七四歳で病弱であった。)と生活していたこと、妻和子は、被控訴人と結婚した昭和四六年一一月以前から大東京海上火災保険株式会社大阪支店に勤務し、右自宅から通勤していたことが認められる。

そして、原審証人村上弘の証言及び弁論の全趣旨によれば、控訴会社は、本件配転命令当時、被控訴人の妻が大東京海上火災保険株式会社大阪支店に勤務していることなどの被控訴人の家族状況はこれを知っていたものと認められる。

2  本件配転命令の手続等

(証拠・人証略)によれば、控訴会社は、昭和五八年三月七日、被控訴人が昭和五七年九月以降朝日支部神戸分会委員長の地位にあったので、労働協約第一八条に基づき、朝日支部に対し本件配転命令について事前通知をしたこと、朝日支部は、これを受けて神戸分会に意見を徴した結果、神戸分会からは、被控訴人本人の意向を踏まえて、組合事情としては、本件配転命令は組合に対する攻撃であり、委員長個人への攻撃であること及び個人事情としては、前記1の(二)の家庭事情があることを理由に、本件配転命令の撤回を求める申し入れがなされたこと、そこで、朝日支部は、控訴会社との事務折衝において、被控訴人が神戸分会委員長であって、本件配転命令は神戸分会の活動に支障があること及び夫婦別居配転となる個人事情もあることを挙げて、本件配転命令についての再検討を要求したが、控訴会社は、当初、人員が減っている状態であり、神戸分会でやりくりしてほしい旨述べて右要求を拒否し、その後も、会社全体として本件配転命令を考えてほしいこと、被控訴人に関する組合事情及び個人事情のいずれも、本件配転命令を撤回あるいは修正しなければならない程の支障なり、事情とは思えないこと、控訴会社全体の人員が減っている中で、業務の必要上から、人事異動を行っているのであり、この場合、組合役員にもどうしても及ばざるを得ないこと及び被控訴人は、同一地域の勤務期間も長いので辛抱して転勤し、金沢営業所で市場の新規開発をしてもらいたいことなどを理由に、朝日支部からの右撤回要求には応じられないとしてかたくなにこれを拒否し、被控訴人につき別居配転とならないような配転先を検討するなどのことは全くしなかったこと、そこで、朝日支部は、同月二二日開催の第四八回臨時支部大会で、現在人事異動の再検討を要求している者で、生活条件に重大な支障のある者については出来る限り守り、要求実現の努力し、具体的な方針が決定しない間に交渉時間切れで被控訴人ら異動対象者に対する解雇がなされるのを避けるための緊急避難的争議権の確立を決定して、さらに控訴会社と交渉したが、控訴会社の態度が変わらなかったため、同月三〇日までに、本件配転命令につき、被控訴人の分会委員長という役職からすれば、分会の組合活動に支障のあることは事実であるが、これ以上闘うことは困難であり、かつ、本件配転命令によって、被控訴人夫婦は生き別れ配転となり、生活条件に支障が生ずるが、現在の組織事情をみると、絶対拒否して闘うのは困難であるとの理由で、被控訴人において異議を留めて赴任することでやむを得ないものとし、以後朝日支部としては本件配転命令につき控訴会社に再検討を求めるなどの取組みをしないとの方針を決めた(なお、右方針については、全損保執行部から、夫婦別居配転は人権にかかわる問題であり、朝日支部の右方針は全損保の運動の理念からも、労働組合の姿勢からも納得できないことなどを理由に再検討を強く要請されたが、朝日支部は、朝日支部としての組織事情などを理由に右方針を維持することとした。)ため、被控訴人は、同年四月四日、やむなく本件配転命令に異議を留めて控訴会社金沢営業所に単身で赴任したことが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

3  本件配転命令についての業務上の必要性等

(一)  (証拠・人証略)、原審における被控訴人本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

(1) 控訴会社は、経営再建のため、昭和五四年度以降、経営黒字化基調回復の施策の一つとして、営業戦力を強化するための内務要員の営業要員への振り向け、販売重点地域の選定・強化、販売重点種目の選定等を内容とする営業最重点施策を実施して収入増加を図ることとし、朝日支部との団体交渉を経て、新規市場の積極的開発を組織するための営業開発本部の設置、営業専念体制の確立のための営業本部制の採用等の組織改正を行った(前記第二次合理化計画の実施)が、さらに昭和五六年一月から、全国的に一層の新市場開拓の徹底化を図ることを目的として、各営業課所に専任の「新市場開発担当者」を任命して、貯蓄総合保険を中心とする保険料の増収とノンマリン代理店網の整備拡充等の積極的な営業活動を展開することとした。

(2) そして、控訴会社は、新市場開発担当者の選任方法及びその任務内容として、全国各営業課所のうち、四人以上の営業社員が構成する課所には一名以上の新市場開発担当者を置くこと、新市場開発担当者は、原則として課所長代理・主任層あるいは営業課所の次席クラスとすること、新市場開発担当者は、従来担当していた代理店を一切担当せず、新市場開拓と代理店の新設及び育成にのみ専念すること、新市場開発担当者は、毎月新市場開発の活動状況についてレポートを提出することとし、同月一日付で、右選任方法に従って新市場開発担当者四〇名余りを任命し、以後昭和五九年度までは、控訴会社の従業員が年々減少して行く中で、同程度あるいはそれ以上の人数の新市場開発担当者を任命して、控訴会社の大株主(あるいは実質的な大株主)である野村証券、国鉄(民営化後はJR)及び大和銀行の退職者、その他県庁等の官公庁、教職員の退職者を対象としての保険販売のための新市場の開発等に従事させた。

(3) もっとも、新市場開発担当者は、昭和六〇年度以降は二〇名台に減少しており、また、新市場開発担当者の右任務は、右のとおり既存の代理店を担当せず、直接貯蓄総合保険等の保険を販売し、あるいは代理店の新設等にあたるというもので、従前の代理店を介しての保険販売等という営業形態とは全く異なるため、控訴会社の従業員にとって新市場開発担当者に任命されることは、労苦の多いものとして、一般的には必ずしも歓迎されていたわけではなかった。

(4) ところで、控訴会社金沢営業所においては、昭和五六年になって、毎年約三〇〇名の規模を持つ石川県教職員組合退職者市場の開拓に成功し、昭和五七年度から同市場での貯蓄総合保険等の保険契約の募集を開始したが、募集時期が三ないし五月ころの一時期に集中し、また、退職者の居住地が全県にわたって広範囲であることから、既存の代理店を担当していた営業所長が、査定担当社員の応援を得て右募集に当たったが、みるべき成果を上げることができなかった。

そこで、控訴会社は、昭和五八年二月、金沢営業所を管轄する中部営業本部長からの要請で、既に開拓済みの石川県教職員組合退職者市場での保険募集等のため、同営業所に新市場担当者一名を配置することを決めた。なお、同営業所に勤務する従業員は、一時一〇名いたが、減員によって昭和五八年当時は営業所長を含めて八名であり、同年四月に新市場開発担当者を新たに一名配置することによって一名増員されることになるが、新市場開発担当者の同営業所への配置は、同年六月三〇日に定年退職する予定の同営業所の従業員が退職した後、その補充をしないとの前提で計画されたものであった。

右認定の事実によれば、控訴会社が昭和五八年四月から新たに金沢営業所に新市場開発担当者を配置することとしたのは、控訴会社が当時経営方針として採っていた営業最重点施策に合致し、かつ、既に保険募集ができるまでに開拓された退職者市場もあったのであるから、一応控訴会社の業務上の必要に基づくものであったということができる。

もっとも、(証拠・人証略)によれば、控訴会社では、今まで新市場開発担当者が配置されていなかった営業所につき新たに官公庁等の退職者市場が開拓されて保険の募集を開始できる状態となったからといって、必ずしもその営業所に新市場開発担当者が配置されてきたわけではなく、また、金沢営業所では、前記のとおり昭和五七年度の前記石川県教職員退職者市場での保険募集は、営業所長が査定担当者の応援を得てなしたところ(他の営業所等でも、退職者市場での保険募集が三月から五月までの短期間に集中するため、その時期だけ営業担当社員以外の社員が応援して、営業担当社員とともに保険募集に従事するということがなされている。)、被控訴人が本件配転命令によって昭和五八年四月同営業所に赴任して後も、被控訴人のみならず、営業所長及び査定担当社員も右退職者市場での保険募集に従事していることが認められるから、金沢営業所で昭和五七年度から保険募集のできる右退職者市場が存在したからといって、同営業所に新市場開発担当者を昭和五八年四月に配置しなければならないほどの緊急性があったといえるかについては疑問がないわけではないが、そうだからといって、控訴会社が同月から同営業所に新市場開発担当者を配置することとしたのが、業務上の必要もないのに、ただ被控訴人の配転先を作るだけのためのものであったとまで断定することはできない。

(二)  そこで、被控訴人が金沢営業所の新市場開発担当者として選定された経緯について検討する。

(1) (証拠・人証略)によれば、控訴会社は、昭和五八年二月に、同年四月一日付で行う人事異動(以下「本件人事異動」という。)の基本方針を次のような内容とすることを決めたこと、すなわち、右人事異動の基本方針は、「<1>同一課所に長年勤務する者を異動対象とする。<2>組織統廃合に伴う異動を考える。<3>欠員課所のうち、必要な課所に対して補充を行う。<4>異動規模は出来るだけ必要最小限にとどめる。<5>異動対象者については内外勤の交流をはかる。」というものであったこと、なお、右基本方針<1>にいう「同一課所」とは、同一の部、課又は営業所あるいは支店という同一勤務場所を意味する言葉として使用されていること、そして、控訴会社は、同年三月一四日開催された朝日支部との事務折衝において、朝日支部に対し、本件配転命令を含む本件人事異動の内容を説明した際、右人事異動が右基本方針に基づいてなされるものであるとの説明をしたこと、右人事異動基本方針のうちの<1>は、人事の活性化・公平化を図ることを目的としたものであり、<5>は、営業・業務・査定各部門の相互交流により人事の活性化と多様な経験と知識を有する保険マンの育成を図ることを目的としたものであったことが認められ、他方、被控訴人が控訴会社に入社した後の被控訴人の担当した勤務場所及び職歴は前記のとおりである(原判決事実摘示中の控訴会社の主張3の(二)の(1)参照)ところ、右事実に(証拠・人証略)によれば、被控訴人は、控訴会社に入社後本件配転命令のなされた昭和五八年四月までの間、営業に約六年、業務に約九年、査定に八年それぞれ従事し、その間、勤務場所としては大阪支店、堺サービスセンター、ついで神戸サービスセンターであって、堺サービスセンターから神戸サービスセンターに転勤してから本件配転命令のあった同月までは丸四年であり、かつ、いずれも大阪市内の自宅から通勤できる阪神地区に勤務してきたもので、転居をともなう異動をしたことはなかったことが認められる。

(2) 控訴会社は、被控訴人が本件人事異動の対象者となったのは、被控訴人が大阪支店及び神戸支店という大都市の支店だけに、しかも、阪神地区という「同一地域」に二三年も勤務していたことにより、大都市勤務者と地方都市勤務者の相互交流を図るとの異動方針、及び同一課所、同一地域に長年勤務している者を定期異動の対象者とするとの異動方針に合致したためであると主張する。

しかし、控訴会社が本件人事異動に当たって立てた基本方針は前認定のとおりであって、大都市勤務者と地方都市勤務者との相互交流や前記意味での「同一課所」の長年勤務者のほかに、これより広い範囲の勤務地を意味する「同一地域」での長年勤務者を異動の対象とすることが本件人事異動の基本方針とされていなかったことは、右基本方針の文言に照らして明白であるのみならず、前掲各証拠(<証拠・人証略>)においては、右「同一地域」が、同一の部、課又は営業所あるいは支店という同一勤務場所よりは広い範囲を指すことでは一致しているものの、通勤可能かどうか、言い換えると異動発令がなされた場合に転居を伴う異動となるか否かが「同一地域」であるかどうかの基準であるとの説明部分がある一方では、営業本部の範囲内であれば遠近を問わず「同一地域」であるとし、およそ通勤の不可能な名古屋と金沢をいずれも中部営業本部の管内に存在するからとの理由で「同一地域」であるとする説明部分もあって、整合性を欠いていることからすると、控訴会社が、そもそも、人事異動対象者の選定基準として控訴会社主張のような「同一地域」基準を有していたとすることには多大の疑問がある(なお、当審証人渡辺俊保の証言中には、控訴会社主張の右「同一地域」に長年勤務するものを本件人事異動の異動対象者とする基準は、本件人事異動についての前記基本方針と異なる基準であることを認める趣旨の部分がある。)。

もっとも、控訴会社は、大都市勤務者と地方都市勤務者の相互交流を図ること及び同一地域に長年勤務している者を定期異動の対象者とすることは、昭和五四年四月以降の控訴会社の人事異動の基本方針であったと主張し、(証拠・人証略)には右主張に副う部分がある。しかし、(証拠・人証略)によれば、控訴会社は昭和五四年四月以降の各人事異動については、それぞれ人事異動についての方針又は人事異動の基準を作り、それに基づいて人事異動をなしてきたこと、そして、右各人事異動の方針又は基準によると、昭和五五年八月一四日付及び昭和五六年四月一日付各人事異動の基準として、「大都市勤務者とその他地方都市勤務者との交流をはかる。」ことが掲げられているだけで、その前後の人事異動における方針及び基準には、その趣旨は全くうたわれていないこと、また、昭和五四年四月以降の各人事異動の各方針又は基準には、「同一部署に五年以上の在籍者については、なるべく配置換えを行う。」(昭和五四年四月一日付人事異動の方針)、「同一部店に長年勤務している者は原則として異動対象とする。」(昭和五五年四月一日付人事異動の基本的な考え方)、「同一部店長年勤務者(特に七年以上)は原則として異動対象とする。」(同年八月一四日付人事異動の基本方針)、「同一部店長年勤務者(特に六年以上)は原則として異動対象とする。」(昭和五六年四月一日付人事異動の基準)、「同一部署に永年勤務する者(特に五年以上)は原則として異動対象とする。」(昭和五七年四月一日付人事異動の基準)とされているだけであり、かつ、右「同一部署」、「同一部店」あるいは「同一課所」とは、いずれも同一の部、課又は営業所あるいは支店という同一勤務場所を意味する言葉として使用されているものであって、「同一地域」に長年勤務する者を異動対象とする旨が人事異動の方針又は基準として掲げられたことはなかったことが認められるうえ、控訴会社の従前の人事異動が控訴会社主張の「同一地域」の長年勤務者をも異動対象者としてなされてきたことについての具体的な主張立証はないから、大都市勤務者と地方都市勤務者の相互交流を図ること及び「同一地域」に長年勤務している者を定期異動の対象者とすることが昭和五四年四月以来の控訴会社の一貫した人事異動の基本方針であったということはできず、したがって、それが本件異動についても当然に適用されるとの趣旨の控訴会社の右主張及びこれに副う前掲各証拠は到底採用することができない(<人証略>の証言中には、本件人事異動の案を作成するに当たっては、右「同一地域」に長年勤務する者をもリストアップした旨の部分があるが、右理由によって信用できない。)。

また、被控訴人が本件人事異動の基本方針の一つである。「同一課所に長年勤務する者を異動対象とする。」との長年勤務者に該当するといえるか否かについては、右認定のとおり昭和五四年四月以降の人事異動の方針又は基準において、長年(あるいは永年)勤務の目安として明示されているのは、いずれも五年以上であること、及び原審証人村上弘は、一般に人事異動の方針における「同一課所に長年勤務する者」との長年とは五、六年以上である旨証言していることからすると、本件配転命令当時において神戸支店に勤務して四年にしかなっていない被控訴人が当然に右「同一課所に長年勤務する者」に該当するものとはいえない(原審及び当審証人村上弘(本件人事異動案の作成に関与した控訴会社人事部長)及び当審証人渡辺俊保(同人事課長)も、被控訴人が神戸支店に四年勤務していたことから当然に右「同一課所に長年勤務する者」に該当したため、本件人事異動における異動対象者となったとの証言をしているわけではない。)。

なお、被控訴人について本件人事異動の基本方針<2>及び<3>に該当する事由があって本件人事異動の異動対象者となったことは、控訴会社の主張立証しないところであるし、また、右基本方針<5>は、その文言によると、そもそも、右基本方針<1>ないし<3>に該当するために異動対象者となった者についての人事異動の具体的内容に関する方針であって、異動対象者を選定するための方針ではないとも解されるうえ、被控訴人は、本件配転命令当時までに営業、業務、査定の各部門に従事していた経験を有するのであるから、被控訴人について、右基本方針<1>ないし<3>に該当する事情がないのに、本件配転命令時点において、敢えて本件人事異動の基本方針<5>に従った人事異動をさせなければならない必要があったものとは認め難い(<証拠・人証略>、これに反する部分は信用しない。)。

そうすると、被控訴人が本件人事異動における異動対象者とされたことについては、本件人事異動の前記各基本方針からは十分に説明できないものといわざるをえない。

(3) また、控訴会社は、被控訴人に対する本件配転命令を決めるに当たっては、金沢営業所への配転候補者として、被控訴人のほかに、当時東京本社自動車業務部の課長代理をしていた桜井滋及び名古屋支店内務課の課長代理をしていた小林紀幸を考慮し、その中から被控訴人を適任者として選任した旨主張し、(証拠・人証略)には右主張に副う部分もあるが、これらは、いずれも(人証略)及び弁論の全趣旨に照らして容易に信用できず、かえって、(人証略)並びに弁論の全趣旨によれば、控訴会社は、本件人事異動において、金沢営業所への配転候補者としては、当初から被控訴人以外の従業員を考慮しなかったものと認められる。

(4) 以上によれば、被控訴人が本件人事異動の異動対象者とされて本件配転命令を受けたことについては、本件人事異動の基本方針から説明することは困難であるというほかないところ、前記二の5及び三の2の事実によれば、控訴会社は、朝日支部から本件配転命令について再検討要求を受けた当初から、被控訴人が控訴会社の主張する「同一地域」に長年勤務していたことが本件配転命令の理由の一つになっているとの説明をしていたわけでなく、しかも、昭和五五年四月一日付の人事異動においては、前記のとおり、橘邦昭夫婦及び八木隆に対する人事異動の内示につき、朝日支部からの夫婦別居配転になるとしての修正要求を受けて、夫婦が同居して生活できるような方向で配転先を変更する措置をとったのに、本件配転命令につき朝日支部から同一の事由をも理由とする再検討要求を受けながら、控訴会社はかたくなにこれを拒否し、夫婦が同居して生活できるよう配転先を変更するなどの検討を全くしなかったことを総合勘案すると、被控訴人が本件配転命令までは控訴会社主張の「同一地域」に長年勤務して一度も転居を伴う異動をしていないとの事情は、控訴会社が、朝日支部から本件配転命令に対して再検討要求が出されてから、被控訴人を本件人事異動の異動対象者として被控訴人に本件配転命令をしたことの正当性を説明するために付け加えたものであり、また、被控訴人が本件人事異動において異動対象者とされて本件配転命令の発令を受けたのは、本件人事異動の基本方針に包含された事柄以外の事情を考慮してなされたものと推認される。

そして、控訴会社が本件人事異動の基本方針からは異動対象者にならないはずの被控訴人に対して本件配転命令をなすに当たって、右基本方針に合致して異動対象者となる者のうちに金沢営業所の新市場開発担当者として適任の者がいなかったとか、右適任者は存在したが、その者に先立って被控訴人に対して本件配転命令をすることを相当とするような特段の事情があったため、なお、被控訴人に対して本件配転命令を発令したことが人選として合理的であったことについての主張立証はない。

したがって、本件配転命令については、その人選が合理的であったということはできない。

4  本件配転命令の被控訴人に与えた影響

本件配転命令は被控訴人に対し、次のような不利益を与えるものであったことが認められる。すなわち

(一)  組合活動上の不利益

(証拠・人証略)によれば、金沢営業所は、朝日支部の組織上、名古屋分会の金沢区会に属するが、名古屋分会は、名古屋支店、中部営業本部及びこれに属する営業所のうち四日市、豊橋、岐阜、松坂、金沢の各営業所に勤務する組合員で構成され、本件配転命令のなされた昭和五八年四月一日の直前においては、その構成員数(組合員数)は五一名であるが、そのうち金沢区会に属する組合員数は七名にすぎず、他の大部分の組合員は名古屋支店及びその周辺の営業所に勤務する状況にあるうえ、金沢営業所は、交通の便などから、名古屋分会の活動拠点となっている名古屋支店からの日帰りが困難なこと、他方、神戸分会は、神戸支店及び姫路支店に勤務する組合員で構成され、右当時、その構成員数(組合員数)は一九名であり、そのうち一一名が同分会の活動拠点である神戸支店に勤務していたこと(なお、神戸支店のある神戸市と姫路支店のある姫路市間の交通の便はよく、その往来のためさしたる時間を要しないことは、顕著な事実である。)が認められるから、既に認定の被控訴人のこれまでの勤務場所、組合役員歴に鑑みると、被控訴人が金沢営業所に勤務しながら、名古屋分会において中心的な組合役員として組合活動をすることは、神戸分会において同様な組合活動をするのに比して著しく困難であるばかりか、ほとんど不可能であるとさえいわなければならない。

(二)  私生活上の不利益

本件配転命令当時の被控訴人の生活状況は前記のとおりであって、被控訴人夫婦は、被控訴人が控訴会社神戸支店に、その妻が大東京海上保険株式会社大阪支店に勤務する共稼ぎ夫婦であったから、金沢営業所への転勤を命ずる本件配転命令は、被控訴人に対し、その妻の退職か、夫婦別居による被控訴人の単身赴任かのいずれかを余儀なくさせるものであったところ、(人証略)、原審及び当審における被控訴人本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、被控訴人においては、引き続き働きたいとの妻和子の意志を尊重し、前記のとおりやむなく妻子と別居して単身赴任することとしたが、別居生活による被控訴人及び家族の生活上の不便、不利益には著しいものがあるとともに、二重生活による出費増も毎月一〇万円を超える額に上ること、なお、仮に被控訴人の妻和子が、勤務先を退職して被控訴人とともに転居することとした場合には、当時勤務先から受け取っていた年額約四七五万円の給与収入を失い、多額の経済的損失を被る結果となることが認められる。

5  控訴会社あるいはその非組合員職制の朝日支部の運営等に関する言動

(一)  (証拠・人証略)によれば、朝日支部は、昭和五四年四月二七日、同年度の賃上げ等の要求につき中央労働委員会に対し斡旋の申立をしたが、その際の事情聴取において、控訴会社の宮川専務は、中央労働委員会の斡旋を断る理由の説明として、朝日支部が、労働協約所定の事項以外の経営権あるいは人事権にわたることについても、朝日支部との協議決定を求めて、控訴会社の経営権あるいは人事権の行使に制約を加えてきていた状態を清算する必要があるとの趣旨で、二〇何年間の労使関係におけるアカを落とさなければならない旨の発言をしたこと、また同専務は、団体交渉の席上、朝日支部の執行委員長大田決に対し、「もう少し、労使協調的な労働組合になってもらいたい」旨の発言をしたことがあったことが認められる(右宮川証言中、右認定に反する部分は信用しない。)。

(二)  (証拠・人証略)によれば、朝日支部が全損保の支援を受けて前記「外に出る闘い」をしていた昭和五四年秋ころ、当時控訴会社の東関東営業本部長であった松本和久(非組合員)は、東関東営業本部所長会議において、出席した営業所長等の組合員に対し、「憂う」と題する文書を配付したが、右松本は、右文書において、控訴会社は、「高度成長から低成長に移行し、世間が縮小減量経営に移行しつつある時に、現代に逆行して中期三か年計画を実施、総合予算で拡大政策を採り、」、また「資本蓄積をやらず、昭和四〇年からこの蓄積分を食って来た」という二つの大きなミスを犯したとし、「蓄積分を食って来た原因は権利の主張という名のもとに組合が要求した人数の増員をして人件費、物件費の過大アップ」をしたことも一因であり、「この際組合委員長も責任をとり、後進に道を譲るべきであろう。」と述べ、さらに「全損保は朝日火災の闘争に介入しているが、朝日を助け育てようなんて本気で考えているのだろうか?自分達の政治闘争のために朝日を防波堤として利用することがその本意ではないだろうか?」と続けたうえ、「今は唯、再建のため耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、会社の方針をすべてのみ、直ちに闘争を終結」することが絶対必要である旨主張したことが認められる。

(三)  前記二に認定のとおり、昭和五五年九月一七日及び一八日に開催された第四三回定例支部大会に向けて、当時の朝日支部の大田執行部の運営・闘争方針に反対する署名推進派組合員が、同大会に署名推進派の立場に賛同する代議員の送るための活動をするようになったのであるが、そのころ控訴会社の非組合員職制は、次のような朝日支部の運営に介入する言動をした。

(1) (証拠・人証略)によれば、控訴会社仙台支店長道家義章(非組合員)は、街頭などでのビラ配り等朝日支部の前記「外に出る闘い」が控訴会社の営業上不都合であって、良識的でないとして批判的な考えをもっていたこと、道家支店長は、いわゆるペーパードライバーであったことから、昭和五五年九月七日及び同月一五日の両日、同支店営業第二課所属の組合員である観音寺道夫から自動車の実地運転について指導を受けたが、同月七日に実地運転の指導を受けた際、観音寺に対し、朝日支部の執行委員長大田決や朝日支部のしたビラ配り等の前記「外に出る闘い」に関連して、「新しい土俵に立って、大田さん長いな」、「大田さんいつまでやるのかな」、「執行部何考えているのかな」、「やるにしても良識的な行動でやればな」などと、朝日支部の当時の執行委員長や方針を暗に批判する発言をし、また、同月一二日の朝日支部仙台分会総会で右定例支部大会の代議員に選出された観音寺に対し、同人が同大会に出席のために出発する直前の同月一六日、前日に自動車運転の指導を受けたお礼であるとして昼食に誘い、朝食の際、今度の大会ではビラ配りその他の問題で良識的な態度でやってくるように述べて、支部大会代議員としての投票等において現在の執行部に反対あるいは賛成しない立場を採るよう示唆したことが認められ、(証拠・人証略)右認定に反する部分は信用できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

(2) (証拠略)によれば、控訴会社北九州支店鶴田健児(非組合員)は、朝日支部福岡分会の代議員に選出された寺本恭夫に対し、同年九月一六日、「今の委員長は共産党だ。今の執行部体制はダメだ。今の執行部体制では会社がダメになる。」と、朝日支部の大田執行委員長及びその率いる執行部を避難する発言をしたことが認められ、右認定に反する乙第一四七号証、当審証人鶴田健児の証言は信用できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

(3) (証拠・人証略)並び弁論の全趣旨によれば、東京分会では、同年九月一二日の分会総会において、分会役員選挙が実施されたが、A派の立場から大田執行部の運営及び運動方針に賛成して分会委員長に立候補した喜多勝三、書記長に立候補した佐藤寛之は、いずれも、B派の立場からこれを批判して委員長選に立候補した船越肇、書記長選に立候補した倉田豊に敗れて落選したこと、控訴会社広島支店営業課所属の組合員菅原幸二は、同月一二日の広島分会の分会総会で分会委員長に再選され、同時に右支部大会の支部代議員にも選ばれたが、同支店長矢野亨(非組合員)は、同月一六日広島支店内で右菅原ら組合員も出席した営業会議において、その終了に当たって、これは雑談として聞いてほしいと前置きしながら、「東京分会では、喜多、佐藤が落選した。会社のことを思っている人が分会の役員についた。流れが変わって来た。」と、朝日支部の当時の運動方針を批判し、これに反対する組合員が組合役員となることを歓迎する趣旨の発言をしたことが認められ、(証拠・人証略)中右認定に反する部分は信用できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

(4) (証拠略)によれば、控訴会社本店の自動車業務部長本山碩夫は、自動車保険の損害利率の改善を目的として、昭和五五年六月ころから同年一〇月ころにかけて、東北、新潟、東京、中国、九州地区の支店及び営業所を巡回指導していたが、各支店等において、組合員である営業課員等が出席している業務打合せ会議の席上、業務説明に入るに先立ち、持参した資料を示しながら、「この資料は自分の部下の執行委員長をやっている大田君に作らせたものだ。自分が委員長をしていたころは専従もいなかったが、今は二人いるにもかかわらず、大田君は組合の仕事で席を立つことが多く、急ぎの仕事を任せられない。」(同年九月二五日の広島支店での発言)などと、朝日支部の執行委員長していた大田決の仕事振りを暗に批判する趣旨の発言をしたことが認められ、(証拠略)に反する部分は信用できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

(四)  前記二のとおり、昭和五五年九月の第四三回定例支部大会において、朝日支部の執行部役員がA派の立場に立つ者とB派の立場に立つ者とに二分され、B派が少数であったが、以後朝日支部の執行部内では闘争方針等をめぐって意見の対立が続くようになり、昭和五六年一一月に開催された第四五回定例支部大会の執行委員長選挙では、B派の立場から立候補した太田忠志が当選して執行委員長となったのであるが、(証拠・人証略)によれば、右第四五回定例支部大会開催の前日である同年九月一六日、右太田忠志(同人は、昭和五四年九月の第四〇回定例支部大会まで大田決を執行委員長とする朝日支部執行部の副委員長をしていたもので、昭和五六年当時控訴会社本部事務管理部システム課長の地位にあった。)が大田決に面談を求め、右両名は、東京都中央区京橋に所在する全損保事務所の近くの居酒屋において面談したこと、太田忠志は、右面談において、大田決に対し、自己が右定例大会において、執行委員長等の支部役員選挙に立候補せざるをえない旨の説明をしたが、その際、同人は、右立候補は業務命令そのものであるとか、執行委員長に立候補することになるのか、その他の支部役員に立候補するかについては、指示されるだけで自分の意見を言うことは許されないなどと、同人が執行委員長あるいはその他の支部役員の選挙に立候補するのは控訴会社の社長以外の取締役あるいは非組合員の上司からの指示であることを示唆する説明をしていたことが認められ、当審証人大田忠志の証言中右認定に反する部分は信用できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

(五)  (証拠・人証略)によれば、神戸分会(神戸支店及び姫路支店に勤務する組合員を構成員とする)では、昭和五八年九月一四日、同月一九日から開催される第四九回定例支部大会に向けて、分会総会が開かれ、支部代議員を含む分会役員選挙が行われたこと、神戸分会総会の開催された右一四日午前、姫路支店の支店長竹内義勝(非組合員)は、同支店内において、同支店勤務の長谷川泉に対し、分会総会での役員選挙に関連して、神戸分会は会社の方から見て目立った存在であると見られていること、姫路支店の従業員が皆一生懸命働いているのに、報われていないのは、組合のことで上から評価されていないからであるなどと説明して、分会総会で、B派の立場から立候補する組合員に投票するよう協力を依頼し、長谷川は、右依頼に対して、よく考えて投票する旨答えて、右依頼に応ずるとの返事をしなかったこと、長谷川は、神戸市で開かれる右分会総会へは同支店に勤務する他の組合員とともに新幹線で行く予定であったところ、同日午後五時過ぎ、同支店の支店長付営業課長芦田清吾(組合員)から、「新幹線の中で読んでほしい」と言われて封筒を渡されたが、その中には、「さて、選挙だが、今まで神戸分会は赤だといわれのない会社からの攻撃を受けており、このまゝ、野口・井崎・中村にやらせると、神戸・姫路に更に人減らしや犠牲的な異動が考えられ、本当をいうと中間派でいた人がやる方がよいと思っている。しかし、もうそんな人も見つからない。せめて、神戸・姫路が「赤」だと思われる目立った存在にならないようにだけはしたい。ぜひ、弱いサラリーマンと笑うかも知れんが、目下の苦しさを理解して投票に臨んでくれるようにお願いしたい。」と記載された文書が入っており、その文面は、分会役員選挙では、いずれもA派の立場から立候補することが予想された右野口ら三名に対する投票をしないよう要請したものであったこと、右文書を読んだ長谷川は、同日の午前の竹内支店長の依頼やその後の同支店長と芦田の行動から、芦田は同支店長と打ち合わせた上で手渡したものと考えたことが認められ、右認定の事実によれば、芦田は、竹内支店長と相談のうえで、その意向を受けて、右文書を長谷川に渡したものと推認され、(証拠略)、当審証人竹内義勝の証言中右認定及び推認に反する部分は信用できず、他にこれを左右するに足りる証拠はない。

(六)  (証拠・人証略)によれば、名古屋分会(名古屋支店、金沢営業所、四日市営業所等に勤務する組合員を構成員とする)では、昭和五八年九月一三日、同月一九日から開催される第四九回定例支部大会に向けて、分会総会が開かれ、支部代議員の選挙が行われたこと、右名古屋分会の分会総会に先立つ同月二日、中部営業本部(本部長松本和久)及び名古屋支店(支店長道家義章)の課所長会議が名古屋支店で開かれたが、その際、名古屋分会の組合員一人一人について投票割当て及び説得担当者が決められたこと、四日市営業所に勤務する池田幹男は、翌三日、右課所長会議に出席した同営業所長小林正信(組合員)から、池田には名古屋支店営業一課に勤務する高萩(組合員)に投票してもらうことになった旨告げられ、ついで同月九日、橋長金沢営業所長(組合員)から、道家名古屋支店長(非組合員)から頼まれたとして、同旨及び被控訴人には投票しないようにとの説得を受けたこと、そして、右名古屋分会総会の当日、池田は、同総会に出席するため名古屋支店に赴いたところ、支店長席にいた道家支店長から手招きされて、「指示どおり頼むよ。」と小声でいわれたことが認められ、(証拠略)、当審証人小林正信、同道家義章の各証言中右認定に反する部分は信用できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

(七)  (証拠・人証略)によれば、控訴会社の中部営業本部長であった前記松本和久(非組合員)は、昭和五八年一二月二七日同営業本部に属する四日市営業所を訪れた際、同営業所に勤務する全従業員(組合員)が出席した会議において、全損保は政治闘争をして控訴会社を危機にさらしたなどと全損保の活動を批判した後、「大田(決)は朝日火災の貧乏神だ。」、「大田(決)、樋口は、癌細胞だ。ダニだ。」(会社に食らいついて離れない寄生虫のようなものとの意味)などと発言して大田決及び被控訴人を非難したり、控訴会社の組合は全損保の脱退を選択するときであると主張する一方、朝日支部の現状について、「今の組合は、経営者と苦労を共にしていく組合を目指している」と、これを肯定する意見を表明したことが認められ、当審証人松本和久の証言中右認定に反する部分は信用できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

6  不当労働行為の成否

以上認定の事実に基づいて、本件配転命令が不当労働行為に該当するか否かについて考察する。

(一)  前記二の各事実及び前記三の5の各事実を総合すれば、控訴会社は、田中社長以下の新経営陣となった昭和五三年八月以降、控訴会社が経営危機にあって、経営再建のためには、人員の削減、賃上げの抑制等による徹底した合理化が必要であるとして、数次にわたり合理化計画案を策定してその実施をし、朝日支部からの昭和五三年度賃上げ要求に対しては一貫してゼロ回答をし、また昭和五四年度賃上げ要求に対しては、人事諸制度の改定、退職金制度の改定及び定年統一とのセットによる値上げ回答をしたため、当時の大田決を執行委員長とする朝日支部は、合理化自体に反対するという立場こそ採らなかったものの、控訴会社の主張する経営危機は合理化のための口実であるとして、昭和五三年度の賃上げゼロ回答や昭和五四年度賃上げセット回答に強く反発し、全損保の支援を得て、激しい争議行為を繰り返し、監督官庁である大蔵省、控訴会社の実質的な大株主である野村証券に対する要請活動や抗議活動をするなどの「外に出る闘い」を組織して闘争を拡大し、さらには控訴会社を相手方として労働委員長に対し不当労働行為救済申立をするなどして、控訴会社と鋭く対立していたところ、控訴会社は、このような朝日支部の在り方は控訴会社の経営危機時において控訴会社の再建に協力しないものとして苦々しく思い、当時の朝日支部の大田決をリーダーとする執行部及びこれに同調する組合員(後のA派)を嫌悪するとともに、朝日支部がより労使協調的な立場を採ることを望んでいたこと、そのような折、朝日支部内部に、右「外に出る闘い」の当否をめぐって、従前の朝日支部の運営及び闘争方針を是とする大田決らA派組合員と、これに反対し、労使協調による労使関係の正常化を指向する署名推進派及びこれに同調するB派組合員との対立が生じ、両派は、昭和五五年九月の定例支部大会以降朝日支部の支配を巡って勢力争いを続けていたところ、控訴会社の支店長等の非組合員職制は、控訴会社の右意向を体し(右のような控訴会社と朝日支部の対立している状況の下において、控訴会社の支店長等の複数の非組合員職制が、右5の(三)の(1)ないし(4)のとおり、場所を異にしてほぼ同時期に、朝日支部の役員選挙等に介入する言動をしたことは、単なる偶然とは到底見ることができないのであり、その前後の右5の(二)及び(四)とともに、非組合員職制らが控訴会社の経営者の意を体してなしたものと推認するのが相当である。)、その立場を利用して、朝日支部の支部役員選挙等に関して前記三の5の(二)ないし(四)に認定のとおり朝日支部の運営に介入して、朝日支部におけるA派の勢力を殺ぎ、B派の勢力を伸長させるためB派を支持支援したこと、そして、朝日支部においては、その後、B派が徐々に勢力を拡大し、昭和五六年一一月の定例支部大会ではB派の立場に立って立候補した大田忠志が執行委員長になったのを初めとして、朝日支部の執行委員の多数がB派組合員によって占められるに至り、さらに昭和五八年九月の定例支部大会では、朝日支部の執行委員は全員B派組合員によって占められることとなったのであるが、同大会までは、朝日支部の執行部内には、依然として、A派とB派との対立が存続し、控訴会社が経営再建の重要な柱として打ち出した退職金制度の改定及び定年制度の統一に関し、B派に属する執行委員が概して控訴会社の提案に対し理解を示し、労使協調の立場から基本的にこれを受け入れて早期に妥結すべきであるとの態度を表明して多数意見を形成したのに対し、A派に属する執行委員は、控訴会社の提案は労働者に不利益であるとして、更に粘り強く交渉を継続すべきであるとの態度を表明して少数意見を形成し、両派が鋭く対立する状態にあったのであるから、従前、朝日支部の大田執行部及びこれに同調する組合員は控訴会社の経営再建に協力的でないとしてこれを嫌悪していた控訴会社にとっては、右のような態度を採るA派及びこれに同調する組合員が依然として控訴会社の経営再建に協力的でない存在として嫌悪すべき対象であったのであり、控訴会社の非組合員職制がした前記三の5の(五)ないし(七)の朝日支部の運営に対する介入行為はそのような控訴会社の意向を体してなされた行為であるというべきである。

以上のことに、被控訴人の組合活動状況に関する前記三の1の事実、本件配転命令の手続等に関する同2の事実、本件配転命令が控訴会社の設定した本件人事異動の基本方針によっては説明が困難であって、右基本方針以外の他の事情を考慮してなされたものであること等に関する同3の事実、本件配転命令によって被る被控訴人の不利益に関する同4の事実、控訴会社の非組合員職制による神戸分会あるいは被控訴人に関する同5の(五)及び(七)の事実を総合勘案すると、本件配転命令は、控訴会社によって、被控訴人の正当な組合活動を嫌悪して、そのことの故に(少なくとも、そのことを主たる理由として)なされた被控訴人に対する不利益取扱であると認められるから不当労働行為として無効というべきである。

四  本件配転命令が不法行為に該当するとの被控訴人の主張について

本件配転命令は、前記のとおり、被控訴人の正当な組合活動を嫌悪しての不利益取扱としてなされた不当労働行為に該当し、被控訴人に対し組合活動上及び生活上著しい不利益を与えたものであったところ、前記三の1、2及び4に認定の事実によれば、控訴会社は、本件配転命令が被控訴人に対し右のような不利益を与えるものであることを知りながらなしたものというべきであるから、本件配転命令は被控訴人に対する不法行為を構成し、控訴会社は本件配転命令によって被控訴人が被った損害を賠償する義務があるものというべきである。

そして、(人証略)並びに弁論の全趣旨によれば、被控訴人は、本件配転命令に異議を留めながら家族と別居して配転先に単身赴任してから現在(当審口頭弁論終結時)まで既に約七年半の年月が経過しているが、その間の前記組合活動上及び生活上の不利益、特に、別居及び単身赴任に伴う自己及び家族の生活上の不便や不経済、さらには被控訴人が同居していれば生じなかったと思われる留守宅での妻和子と被控訴人の母との不和とそれを原因としての被控訴人の母との別居などにより多大の精神的な苦痛を被ったことが認められるところ、これらのことに本件に顕われた諸般の事情を考慮すると、被控訴人が不当な本件配転命令によって現在までに受けた右精神的苦痛を慰藉するためには一五〇万円をもって相当であるというべきである。

なお、被控訴人は、右不法行為に基づき、右口頭弁論終結時後の将来にわたる損害賠償をも請求するが、本件配転命令によって被控訴人が将来被るかもしれない損害の有無及び額については、控訴会社の今後の対応、被控訴人の家族状況の変化等によって左右されるため、現時点でこれを具体的に確定することはできないから、右将来の損害賠償請求は理由がないことに帰する。

五  結論

以上によれば、被控訴人の本訴請求は、原判決が認容した限度で正当として認容し、その余は失当として棄却すべきであるから、これと同旨の原判決は相当であり、本件控訴及び本件附帯控訴はいずれも理由がない。

よって、控訴費用の負担につき、民事訴訟法第九五条、第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 長門栄吉 裁判官 永松健幹 裁判長裁判官中川臣朗は退官につき署名捺印することができない。裁判官 長門栄吉)

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